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奈良,平城宮跡へ

今年初の更新となる.

今年の抱負として「新書を50冊読む」と決めた.これまでずっと一般教養が著しく欠けている自分を見つめ直し,教養を身に着けようということで,「ブルーバックス新書」を禁止した縛り50冊ということだ.一週間に1冊ペースということで,既に今年は2冊目に入っているのだが,その本は日本の考古学者が発掘調査などに携わってそれを現在(その本が書かれた当時)の日本の中でどう位置づけを行うか,在り方を問うか,といったような主旨のことがエッセイのようにいくつも別の切り口から掲載されているものだ.日本は京都や奈良のみならず,いたるところに遺跡が埋まっているせいで,開発をしようと思うとその遺跡調査をしなければならないといった状況にあったようだ(今もだが).

……その本の内容はさておき,著者が発掘調査した奈良の平城宮跡についての節を読んで近くなこともありなんとなく行ってみたくなったのだ.もう京都もこの2月いっぱいで離れることになるし,その前にこの近辺の観光を少ししておこうかと思っていたのだ.

ということで,近鉄に乗り(初乗車だと思う)大和西大寺駅へ.京都駅から結構な時間がかかった.途中新田辺あたりでふと本から車窓へと目をやったとき,非常に開けた景色が見え,晴れなこともあり,心が少し軽くなった気がした.こういった自然に囲まれた風景は日頃パソコンと向き合い,ラボと自宅の往復をしているだけでは絶対に目にすることができない.私の実家も山間にあるが,また違った「人里」感を醸し出しており,どこか懐かしい気持ちにさえもなった.

今回の目的は平城宮跡.特に下調べもしておらず,ただ1970~80年ごろに書かれた本に「遺構展示がされている」とだけ書かれていたので,それがまだ平成の終わりにも残っていることを期待して足を運んだ.

駅からの距離は少しあり,多くの観光客は駅前のレンタサイクルを使っているようだった.私も借りようかと思ったが,魔の京都市・自転車にこやか整理軍によって洗脳されている私は駐輪場がなかったらどうしようかと借りるのをやめたのだ.ただその思い込みは平城宮跡に一歩足を踏み入れたら杞憂だったということに気付かされる.

入ってすぐに第一次大極殿が見える

だだっ広いのだ.無駄に広い.何かもっといろいろ建物やら発掘現場やらがひしめいているものだと思いこんでいたが,実際にはほとんどが緑地と化し,家族連れがキャッチボールをしたり凧揚げをしたりしていたのだ.本にもそのようなことが書かれていたが,まさかここまでだとは.百聞は一見に如かず.

私は昼過ぎについたのでまず閉館前に資料館を見ておこうと思い,平城宮跡資料館へ.

少ない.人が.

京都に住んでいると観光公害をモロに食らう.それだけあって,奈良のこの観光客の少なさには驚かされた.主な観光地の東大寺や興福寺から離れていたとしても,だ.

祝日にも関わらず人はまばらで何も言わなくとも資料館のボランティアの人が解説を行ってくれた.こちらからの質問にはあまり的確な答えをいただけなかったが,頑張って勉強している真っ只中という感じであった.

資料館の中は基本的に平城宮に務めていた役人のものが展示されている.私としてはどちらかというと庶民の暮らしに興味があるのでそれが全く無いのが残念であったが当時の暮らしぶりを見る上ではいくつか興味深いものがあった.

当時は木簡といって,紙が非常に高価であったので木の板に墨で文字を書いてやり取りをしていたのだ.使い終わったら刃で表面を削り取り,また使う.日本人の「もったいない」精神は既にここから来ているのか.この削り取った木簡も発掘されているらしく,貴重な内容であったものについては国宝にまで指定されているとか.面白いことに,この削り取って書けなくなった木簡は排便をしたあとお尻を拭くのに使ったそうで,遺跡から糞と一緒に糞がついた木簡片が出土している.たいそう痛かっただろう.

また,写真左に小さな2本の木片が見えるだろうか.それは「算木」というらしい.そのボランティア曰く「高度な計算までできたようだ」ということだが,調べてみると2本だけではどうにもならずもっとたくさんの棒を使用していたようだ.

奈良時代のベッド

そして驚いたのが奈良時代には既にベッドが存在したというのだ.当時の天皇はこのようにフローリングにカーペット,ベッドという今のスタンダードの暮らしを既に手に入れていたようだ.なぜこれが近世まで広まらなかったのか,疑問である.

写真はレプリカだが,本物は正倉院に現存しているらしい.宝物殿の公開で見ることができるようだ.

ただ,ベッドといってもそれを見る限りただ高床の木板に畳を乗っけているだけなので現在のそれとは少し異なるものであると窺える.言うなれば「高床式畳」といった具合だろうか.

さて,資料館を見終えて復元されたという第一次大極殿を見に行くことに.その案内をしてくれたボランティアの方曰く,「中はなにもない」とのこと.なんだそりゃ.

本当にこれだけしかないのか.というのが率直な感想である.開けた土地にただぽつねんと立っていた.

ただ,丹塗のそれはそれだけで存在感があった.

写真をこう撮ると,丹塗の朱が青空に非常に映える.いい景色だ.来てよかったと心から思った.それに何より人が少ないのでこうして前を過(よ)ぎる人がいない.

第一次大極殿に上がると,廊下の欄干(らんかん)には高欄宝珠(擬宝珠/ぎぼし)が飾ってあった.このような擬宝珠を実際に見るのは二度目で,前に伊勢神宮の資料館で同じような擬宝珠を見た覚えがある.

玉座からの眺めは奈良の山々を見渡すことができ,壮観であった.

これが玉座の復元(と第一次大極殿の中).どうやって復元したのかと思ったが,京都御所に残っている大正天皇のときのものを参考に復元したらしい.

募金箱があり,このような発掘・再現事業にはお金がかかることが窺えるので,少しでもと思い小銭を突っ込んだ.1000円札がいくつも入っていて少しひるんだが.

その第一次大極殿の玉座の真正面には今再建真っ只中の南門がある.また,回廊も復元予定らしい.その頃には私はもう関西にはいないので,いずれまた来ることにしよう.

今度は遺構展示館へと向かう.その途中に内裏(だいり)で使っていたという井戸が復元されていた.と言っても一部だけだが.

こうして生活に使っていたものが復元されると,そこで働いていた人々がどのように暮らし,それを使用していたのかを垣間見ることができる.

で,実際にあったとされる井戸の囲い(のレプリカ)が遺構展示館にあった.

巨大な杉の木をくり抜いて作ったそうだ.

他にもこの遺構展示館には発掘現場をそのまま展示している箇所が2箇所ほどあった.

これは謎の苔に覆われ始めているが原因調査のために掃除せずに残してあるらしい.可能性は極めて低いだろうが,これが当時の苔の胞子とかから出てきたものだったら面白いのに.

それで,ぼちぼち見終えて展示室の奥から外に出てみると,

このように平城宮跡内で遊ぶ家族連れが.やたら凧揚げをしている人が多く思えた.私自身,凧揚げ自体をもう10年以上目にしていない.こうして開けた土地や,電線が無いような広場は今ではもう少ないからだ.そういう点で見ると,この平城宮跡の在り方というものが少し見えてくる気がする.

次は東院庭園へ.これもまた復元されたものだが,まずまずの規模の庭園だった.京都の有名な庭園と比べると何でもない(といっては失礼だが)庭園だが,それでも当時奈良時代に既にこのような庭園が作られていたというのは驚きである.

現在は池の水はきちんと循環・取り込みを行っているのできれいだが,当時はどうだったのだろうか.

東院庭園を出てすぐ,今時珍しいアドバルーンが目に入った.デパートがすぐそこに立っているのだ.読んでいる本の通りであれば,おそらく長屋王邸跡の上に立つ「そごう」じゃないだろうか.こうして1300年前の古い土地の復元の隣に現代の建造物が建っているのもまた趣というか,時の流れを感じさせる.

そこから少し歩いて最後の目的地,朱雀門(すざくもん)へと向かう.

どうやら平城宮跡内を電車が走っているようだ.そのためこのようななんとも奇妙な写真を撮ることができる.

朱雀門も綺麗であった.本来の道幅も少しだけだが再現されているようで,広い道があったことが実際に歩いて感じることができる.

最後に帰る途中にもこうして第一次大極殿と鉄道とが重なって撮れるスポットがあった.……私以外に撮っている人間は誰一人いなかったが.

今日聞いた話で一番おもしろいと感じたのが先のベッドと木簡の話.それと天皇が遷都するときに「使えるものは持っていけ」ということで門やら建物の瓦を剥がして持っていったそうだ.

また,このような歴史的な遺跡が復元され,そしてそれが市民の憩いの場として現代においても使用されているというのは「遺跡」というものを非常に身近に感じることができるのではないかと考える.遺跡には街を発展させる開発事業を捻じ曲げてまで保存にお金と時間,人員が割かれている.中には開発が中止になったものまである.それをしてまで守らなければならない価値がある,という考えは学者にとっては当然のことだろうが,一般市民は必ずしも皆そう思っているわけではないだろう.しかし,こうして身近な存在にすることである種の遺跡・文化財への「理解」が少しでも得られるのではないだろうか.今回平城宮跡に足を運んでそういったようなことをぼんやりと感じた.

今度奈良に来るときは藤原宮跡や古墳を見てみたいと思う……今度は自転車を借りて.