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結局大学受験で第一志望校に落ちてどうだったのか

今、国立大学の受験を控えて全国の受験生諸氏は猛勉強の真っ只中であろう。もし今こんな記事を開いているのであれば即刻スマホを叩き割って一つでも単語を覚えたほうがいい。

第一志望校に落ちた4年前

私は第一志望校に某旧帝大を掲げ、一度だけオープンだったかの模試で得た”C判定”を頼りに爆発四散した人間だ。

今思えばあれは異常な環境に置かれていたがゆえに感覚が鈍っていたのだろうと思う。トップ進学校に通う中底辺の方々は思い当たる節があるのではないだろうか。私の周りは皆「東大 or 医学科」の雰囲気だった。マジで。実際頭のいいやつもいて、半数くらいは現役で受かったんじゃないだろうか。落ちたやつも一年後にちゃんと東大に受かっていった。

で、私は「自分も頭がいいのではないだろうか!?」と盛大な勘違いをした挙げ句、某百万遍大学に恋い焦がれ彼らと机を並べ、勉強し、そして落ちた。

いやマジでイケた気がしてた、脳がきっとどうにかなっていたんだと思う。前日に食べたラーメンで腹を下し(京都のラーメンは異常に動物性油脂が多くてキツイ)、クラスメイトにストッパをもらっていくぞいくぞ合格~~~~~~~とか突っ込んでいったが、大学当局にストッパを食らってしまった。

特にひどかったのが数学だった。私は数学ダメダメな理系落ちこぼれ学徒だったのだが、当日は解答速報で”答え”があっていたにもかかわらずえげつない点数で、やっぱり過程が全然あってなかったんだ、と落ち込んだものだ。他の教科はまあ普通って感じだったが本当に数学がダメだった。

合格発表当日はパソコンの前で何度も自分の受験番号を確認したが、F5を連打したところで無いものがあるようにレンダリングされるわけがなく、ただただ呆然とし、しばらくしてから下の階の親に「落ちた」とだけ伝えた。

知名度を捨てた男

で、どうすんのってことで国立後期の受験をすることにした。私立大学は理系ってこともあって親は受験すら認めてくれなかったので実質これが最後の滑り止めである。

某松ヶ崎大学に出願していた。京都にこだわりを持っていたのは、(これは最も恥ずべき選択であったが)当時付き合っていたカノジョがひとつ下で、まあ近くになればいいなってことで、某修羅の国大学をやめてこっちにしたのだった。今思えば「あ ほ く さ」って感じだが、当時は本当に真剣だった……気がする。

松ヶ崎大学は中部では聞いたこともないような大学だったが、行ってみると「いや思ったより(外装が)綺麗やん」って思ったものだった。赤本すら買っておらず、過去問もろくに解いていない状態で後期試験に突っ込んだ。もう頭の中はすっからかんでどうにでもなれという投げやりな気持ちで受験した。部屋が汚くてげんなりした覚えがあるが、まあこんなものかとも思った。

それと「もう直前に腹を下すまい」とラーメンは食べず、なか卯で済ませていた。なか卯好きです、松屋の次に。

それで受験結果は合格。親は私の百万遍大学への執着を一年ずっと見てきただけあって河合塾のパンフを既に合格発表前から取り寄せていたのだが、なんか私の中での糸がプッツンと切れて、どうにもこれあと一年やっていける気がしなくなって、後期の大学に進むことにした。まあ名前も「応用生物学」ってだけあってなんかかっこいい蛍光画像とかホームページにあって就職先も悪くなさそうだしいいんじゃないかってぼんやり思っていた。カノジョも来るし。カノジョも来るしな。

すべてが落ちていく

それで、入学して、数カ月はいそいそと暮らしていた。

サークルにも2つほど入った。京大のインカレサークルだ。結局忙しくなって後にやめてしまったが、「大学生らしい」活動を経験できたので良かったと思っている。

カノジョとは遠距離恋愛になって次第に情緒不安定になっていく。弱かったあの頃の私は。なれない新しい地と、全く知り合いのいない街。すがれるものはなかった。Twitterに朝から晩までしがみつき、怪しげなる黄色い洋菓子のアイコンの人が新入生にやたらラーメンを奢っているのを訝しげに見ていたりしたものだ。

そして情緒不安定が最高潮に達した8月、もう何もかもキツくなってしまった。大学は流石に親の金で行かせてもらってるので行かねばならないと思い、毎日講義には出席していた。勉強についていけないっていうことはあまりなかったが、京大と掛け持ちをしている数学講師が「お前ら程度には原理がわからないだろうから暗記しておけ」的な感じのスタンスだったのが、なんだかそんなふうに見られているのかと思ったものだった。

バイトをしながらなんとか気を紛らわし、いろいろと段々順応していった。

それで、ある日クラスの女の子に「君、百万遍大学落ちたでしょ」って声をかけられた。何だと思ったらその子も受験して落ちたらしく、「一緒に仮面浪人しないか」と。ここは私の人生の岐路じゃないかと今でもちょっと思う。サークルで度々行く某大学、もう憧れがないというのは嘘になる。Twitterでも度々仮面浪人しているのを見かけていたが、正直あまりいい印象はなかった。それでもやっぱり、と思って、はい、と返事をした。

が、やっぱりあの頃の意志はとうになくなっていた。もうほとんど化学ですら覚えておらず、自分の頭の悪さを再認識し、すぐに断念したと連絡をしたものだ。

結局彼女はもう少し南にある大学に受かっていった。今でもTwitterで度々見かけるたびに当時のことを思い起こす。

私の大学生活において一番大きな存在といっても過言ではない同級生のKも同じような道のりを辿ってきたヤツだった。

ある講義でグループごとに研究発表を行う、というものがあってそこで僅差でKが所属するグループに負けた。何か私は変な執着心があったのかわからないが、どこかで勝ってやりたいと勝手に闘志を燃やし、サイエンス・インカレという文科省が主催する研究発表会へ向けた研究を始めることとなった。

どん底から這い上がる

大学2年目の4月。カノジョ(もう全く連絡を取っていなかった)に連絡しても返事がなく、途方に暮れてTwitterを見ると、九州に行った様子。

もうどうしようもなかった、私の選択が大きなミスだったのだと思い知らされた。本当に焦った。なんで私は京都にいるんだ、大学に落ちて、思い描く理想像とかけ離れた現実、そして浪人して東大に合格していく私の友人らを見て一年のアドバンテージが本当にあるのかなど考えてもきりがなかった。

もうただなにか前へ進まないとまずい、ということだけは本当にわかってきた。このままだと「名も知れぬ地方国立大学に行ってなんか落ちぶれたやつ」という烙印を押されてしまうのではないかという焦燥感。

そこでサイエンス・インカレの研究に打ち込んでいった。本当に思いつきみたいなテーマだった。指導教官は全然分野の違う人だったが丁寧に見てくださった。ただサーベイも実験計画も実験もすべて自己責任。結構時間がかかると見込まれた実験なのでどうにか効率化を図ろうと動画解析プログラムを作ろうとした。が、当時の私はPython2と3の違いもわからない人間でコピペしたコードが動かないよおとか嘆いていた。だが大学から審査の結果予算がつき、プロジェクトが本格的に動き始めてしまった。そこで浪人して合格したばかりで暇であろう高校時代の友人に声をかけてそのソフトウエア開発を担当してもらった。

夏からは酒屋でのバイトも辞め、学内の研究室で働いていた。学生実験もあったので毎日実験三昧、レポート三昧であった。

そうしているうちに自然と悩みは薄れていった気がする。

サイエンス・インカレの書類審査に合格し、口頭発表が決まる頃には不合格や元カノのことはすっかり忘れていた。それに新しい彼女もできた。これもまた遠距離だが、なんだかもう悟りを開いてしまったのか、あの頃感じていたような不安や焦りは何も感じなかった。

それで、サイエンス・インカレで受賞。

「なんか私イケるんじゃね!?」とまた勘違いフェーズに突入した私は今度は「飛び級で大学院」をするべく某大学院へと足を運んでいた。

「もうこれでさらに一年詰めればもう浪人した彼らとの差は歴然だ」と信じていた。愚かな。ゴールのないレースで亀が2年早く走り始めたところであっという間にウサギに抜かれるのがオチだろう。

まあ結局その先のラボのボスに「何があるかわからない。ちゃんと学士を取っておきなさい」と諭され、結局「退学チャレンジ」は失敗に終わった。この選択は悪いものではなかったと思っている。

ラボ配属、そして院試へ

ここまで読んできた読者は私の「醜いまでの学歴コンプと自己嫌悪」を感じ取っただろうが、まさに私の原動力はそこにある。

なにかしでかした失敗、後悔が私の中には消えずに延々と積み重なり、毎晩のように私を苦しめる。小学校中学年と優等生タイプであった私はなにか批判にさらされたものについて今でも鮮明に覚えていたりする。その過去から逃れるように――結局どうあがいてもその記憶は消えてくれないのだが――毎日何かをして気を紛らわしているのである。

もうこれはどうしようもない性格だと割り切って生活するしか無いのだが、また今度は新たな学生生活の転機が訪れた。

研究室配属である。

地方国立大学なんてものは、あまりカネがないことはわかりきっていた。しかし設備が飛び抜けて充実している研究室があり、そこに決めた。

研究室は結構自由度が高く、裁量労働制っていう感じだった。テックの人たちは決まった時間にいるけれど。

Kと配属された私は別々の指導教官であったが、なんやかんやで楽しい研究生活を送っていた。

で、院試の時期がやってきた。大岡山大か三島大、両方受けて両方受かったわけだが、それについては昔の記事を参照してほしい。

まあなんというか、結局東京に行くことになった。

結局落ちた先で何を得たのか

友達も結局最後まで交友関係が続いたと言えるのはKくらいであった。

あんまり人脈~って感じの四年間でなかったことは確かだ。

じゃあ何を得たのかという話だが、「逃げ方」じゃないだろうかと私は思う。厳しい現実、思い出したくない過去からどう「逃げ」るのか、その禍根を断つのではなく、それ自身を原動力として前に少しずつ進み、自分の価値を高めていく、という方法それ自体を学んだんじゃないかと私は思う。

もちろん勉学については言うまでもないが、生き方を少しずつ模索していくことができたのではないかと思う。

受験に成功しなかった諸氏に伝えたいことは、

どんな大学でも大学があなたを変えてくれることは絶対にない。

ということだと思う。せいぜい頑張って生きてほしい。合わなかったやつはどんな有名な大学だろうと辞めていっている。自分の価値は所属する組織によって決定されるものではない。 自分の価値を見出し、自分を活かす方法を模索することのほうが重要であると考える。